世の中には「わが人生に悔いなし」いえる人生を送った人がいる一方で、後悔の塊となって亡くなる人もいる。その違いは簡単に言えば、自分の物差しで志を持って生きる生き方と身の安全と社会的成功だけを求めて生きるかどうか、の違いだろう。あるいは、自分のやりたいことをやって生きるのと、自分のやりたいことをやろうとしない、つまり人生の戦線に参加しないという生き方の違いか。人生の戦線に参加すれば、当然、失敗もあるだろう。人生の戦線に参加するということは、すなはち、「失敗を恐れないようにしょう」と言うことである。「要するに人生を後悔して死んでゆく人は、失敗を恐れて、何もしない人である。そしてそれが人生最大の失敗である。」と、著者は言う。
若いころは、上昇志向が強いとゆうことは許せる。そのために業績を上げることなどを価値として重視する。しかし、高齢者になったら、仕事での業績より、自分を磨くか、磨かないかということのほうが重要である。高齢者になったら、いろいろと忘れるようになる。まず名前を忘れるようになる。次に顔を忘れるようになる。忘れればいつもニコニコしていられる。そして、人間の活力の源は話し合える環境であるのだが、加齢とともに、本音を話し合える環境が生まれてくる。人はどんなに年老いても、損得がない環境に生きていれば美しく輝いた表情になる。「一人になる」ということはむしろ、能動的なことだと筆者は言う。例えば、夢中で日曜大工をする、無心で料理を作る、そうすることで活力や自信がわいてくる。「老い」の活力は、「若さ」の活力と色が違う、と筆者は言う。「老い」の活力は、悩みを突き抜けた明るさであるとのこと。
幼児期、児童期、青年期、壮年期、中年期、老年期、それぞれに解決すべき課題があり、それぞれの課題を解決しなければ、次の段階に進めない。この点を著者は、野球に例えて、一塁から、あるいは、二塁からホームに帰ってくることはできない。一塁を回って、二塁を回って、三塁を回って初めてホームに帰ってくることができると言っている。成長に「苦悩や悲哀」、「不幸と混乱」が必要なら、それらを避けるべきではない、と筆者はいう。それは苦しくても、その苦しみの先に救済と解放がある。成長するための苦しみは幸せになるための絶対条件なのだろう。
人生はトラブルの連続である。問題はそのトラブルがおきた時に、それを解決する意思があるかないかという点であるようだ。人生の各時期には、それぞれに解決すべき課題があり、それを置き去りにすれば、いつまでも引きずるといったことは、考えもしなかったところである。また、いかに「自分」が大切であるかも改めて認識させられた。結局のところ、「自分」を確立することなく何かをやろうとしてもやることは見つからない。また、エネルギーもわいてこない。
悩んでいる人は、自分だけが悩んでいると思いがちである。要するになんとなく自分は特別な人と感じている。他人も自分と同じように悩んでいると知った時に人生を見る視点が変わる。今の視点以外にも視点はいくつもあるだろう。他の視点から物事をとらえてみる、それが生きやすさにつながる。行き詰まった時には、視点を変えるのも、一つのいきかただろう。